エピソード
第4回 教育者大河内正敏
大河内正敏は明治44(1911)年、東京帝国大学の教授となった。
明治36(1903)年に東京帝国大学造兵学科を卒業し、同大学の講師、助教授を務めていた大河内は、明治41(1908)年、ドイツ、オーストリアに私費留学し、帰朝後、造兵学科初の専任教授となった。
そもそも造兵学科とは、火砲構造理論、火薬学、弾道学等を研究・学習する学科で、明治20(1887)年創設以降、陸軍もしくは海軍より派遣された者が講師となっており、大河内が講師になるまで専任の教員を持っていなかったのである。蛇足であるが、造兵学は当時の最新の機械力学を扱っており、同学科は太平洋戦争終戦終結後、内容の変更を行い、精密工学科となって戦後日本の生産工学、機械工学の発展に寄与している。
さて教育者としての大河内であるが、火砲構造理論、砲架構造理論、砲外弾道学を講じた。講義資料を整え、実験設備、図書の充実を図る一方、講義内容は年々内容を刷新、留学・帰朝後に、従前の理論砲外弾道学が砲内砲外にわたる実験弾道学に進化発展するなど、最新の技術を取り入れることを怠らなかったと言われている。
一方、帰朝当初は、実験を行うために私費で助手を雇い、実験器具を制作する専門工員も自費で雇い、旋盤の購入費も私費で賄うなど、予算不足には悩まされたようであった。後に、それらの必要性は学長に認められ、予算で賄うことができるようになったが、これらの私費投入は大河内の熱意の現れといっても過言ではない。
その大河内の教育に対する重要な貢献が物理実験過程の創設である。現在の六三三四とは異なる、当時の六五三三教育課程においては、工学を修める人は物理実験を習得することができなかった。我が国の昔の工学者には実験的研究をした人が少なかったということだが、これがその原因と考えられた。
この点について、大河内は早くから*認識し、自ら多くの実験的研究の基礎を作り上げるとともに、明治44年に教授になると造兵学科の過程に物理学実験を取り入れたのである。
これは、漸次、他の学科の認めるところとなり、年々参加学生が増え、昭和2(1927)年にはついに基礎科目となったのである。
また大河内は造兵学科の過程に一般物理学を入れ、昵懇であった理学部物理学科の寺田寅彦教授に依頼して、学生の聴講を認めてもらい、試験も受けさせてもらった。数年の後、この聴講は理学部から断られることとなるが、それをきっかけに工学部に一般物理学の講義が開講されることとなった。これはわが国の工学教育上、極めて有意義なものであった。
(参考:「大河内正敏 人とその事業」(昭和29年9月1日 大河内記念会)より「教育者大河内正敏先生 青木保」)
* 大河内は、明治33年7月東京帝大工科大学造兵学科、一方寺田は同年理科大学物理学科に入学した同期生であった。大河内は物理学科の地下室で寺田と飛行弾丸の撮影、抵抗物を貫く弾丸の運動の飛程を実験した。大河内と寺田はこの結果をモデル化、当時の数学物理学会に発表したのである。このようなことから工学部に実験物理を導入するきっかけになったのは、寺田と大河内の共同実験が大いに影響を与えたといっても過言ではない。さらに、大河内は理研の所長に就任後直ちに、寺田に「理研に来ないか?」と誘っていることからも、寺田の物理学の能力、実力を確信したうえで、理研の工学者に対する影響力を発揮してほしいと願っていたのである。